![]() 私はあれを書いているうちに、 時には、大きな歴史の流れが歴史を主人公のようにして書いてあり、 その間に、半蔵や馬籠が浮かび上がるといった具合でしょうか。 そうしてまた、重厚な部分である歴史的な説明や事件の解説は、主だった為政者以外の、助演者というよりはさらに脇役と呼ばれるであろう人物を通して見ている所に興味を覚えました。 側面像から歴史の表舞台を進め、草叢の人々の目でそれを読み進めてゆく。 そんな印象を受けている「夜明け前」。 前回からの続きです 木曾地方における街道附近の助郷組織を完備したいとの願いは遂に聴きいれられないまま、一宿につき金三百両を御廻し金として補助を受けたに止まり、半蔵は馬籠宿に帰ってきます。 参勤交代緩和にともなう江戸から流出した人の流れ、新しく政治の中心となった京都、大阪城への人の流れは、宿場だけでなく、そのたびごとに借り出される周辺の農民達をもを疲弊させていました。 乗じて物価の高騰や天災、作物の不作はところにより飢饉となり、社会全体の深刻な影となって形にならない不安を人々の心に鬱積してゆきます。 水戸の分裂と天狗党、水戸浪士の落ちてゆくさまは人の心を震え上がらせ、一群はやはり馬籠を通り抜けるのですが、その折には「女子供」は裏山へ逃げ隠れていました。 二度にわたる長州征伐、もはや時にそぐわない参勤交代の復活、これらはいよいよ幕府への不信を募らせ、その権威を喪失させるばかりで、「徳川の世も末」と下々のものまでが思うようになって行きました。 一方、幕府の対外政策もまた難航を極めていました。 開国開港を約束させた江戸条約の履行を迫って朝廷に直談判を試みようとさらに脅しをかけ、兵庫、大阪にまで乗り入れたイギリス、フランス、アメリカ、オランダ軍艦。 フランスの手を借りて難を乗り切ったのは、山口駿河という外国奉公の首席で、その駿河もまた閉門謹慎の為江戸へ向かう途中、馬籠に宿泊し、半蔵にこんな話を聞かせるのです。 「ご主人はまだお聞きにもなりますまいが、いよいよ条約も朝廷からお許しが出ましたよ」 「やかましい攘夷の問題も今になくなりましょう。この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもありますまい。」 馬籠宿の現在の写真がフリー素材にありましたので、挿絵として。 馬籠の宿場の中央にある高札場のところには物見高い村の人達があつまった。 「公方様、御不例御座遊ばされ候ところ、御養生叶はせられず、去る二十日卯の上刻、大阪表に於いて薨御遊ばされ候。かねて仰せ出ださせ候通り、一ツ橋中納言殿相続遊ばされ、去る二十日より上様と称し奉るべき旨、大阪表に於いて仰せ出され候」。 将軍家薨去と聞いて、諸藩の兵は続々戦地を去りつつあった。 半蔵はいずれこの木曽街道に帰東の諸団体が通行を迎える日のあるべきことを感知した。 同時に、敗戦を経験して来るそれらの関東方がこの宿場に置いて行く混雑をも想像した。 しかし、馬籠の宿はこれらの通行を支えられない状態に陥っており、半蔵は伊之助(金兵衛の跡取り)と相談して、もはや何の助けも期待できない江戸幕府ではなく、尾州藩(尾張藩主)へ年貢減免の嘆願を送ることにしました。 金兵衛は馬籠年寄り役、半蔵の父吉左衛門の相談相手でしたから、二代に渡る友情ということになります。 幕府方の総退却は馬籠通過に八日の時間を要し、さらに後からあとから繰り込んで来ます。 ある朝のこと、妻籠の寿平次が馬篭の半蔵に会いに来ました。 二人の話はお互いの激しい疲労をねぎらうことから、毎日のように眼前(めのまえ)を通り過ぎた諸団体のことに落ちて行った。 「あの、水戸の浪士が通った時から見ると、隔世の感がありますね。 もうあんな鎧兜や黒い竪烏帽子(たてえぼうし)は見られませんね。」 「一切の変わる時期がやって来たんでしょう。」 と寿平次もそれを受けて、「−−武器でも武人の服装でも。」 「まあ、長州征伐がそれを早めたとも言えましょうね。」 「しかし、半蔵さん、征討軍の鉄砲や大筒は古風で役に立たなかったそうですね。 なんでも、長防の連中は農兵までが残らず西洋の新式な武器で、寄手(よせて)のものはポンポン撃たれてしまったと言うじゃありませんか。あのミニエール銃というやつは、あれは英吉利(イギリス)が長州に供給したんだそうですね。 国情に疑惑があればいくらでも尋問して貰おう、直接に外国から兵器を供給された覚えはないなんて、そんなに長防の連中が大きく出たところで、後方に薩摩や英吉利がついていて、どんどんそれを送ったら、同じ事でさ。 そこですよ。君。諸藩に率先して異国を排斥したのは誰だくらいは半蔵さんだっても覚えがありましょう。 あれほど大きな声で攘夷を唱えた人たちが、手の裏を返すよう説を変えてもいいものでしょうかね。 そんなら今迄の攘夷は何の為です。」 「へえ、きょうは君はいろいろなことを考えて、妻籠からやって来たんですね。」 「まあ、見給え。破約攘夷の声が盛んに起こって来たかと思うと、たちまち航海遠略の説を捨てる。条約の勅許が出たかと思うと、たちまち外国と結びつく。まったく、西の方の人達が機会を捉えるのの早いのには驚く。 彼(あれ)も一時(いっとき)、是も一時と言ってしまえば、まあそれまでだが、正直なものはまごついてしまいますよ。そりゃ、幕府だっても仏蘭西(フランス)の力を借りようとしてるなんて、専らそんな風評がありますさ。 英吉利はこの国の四分五裂するのを待っているが、仏蘭西にかぎって決してそんなことはないなんて、仏蘭西は仏蘭西でなかなか甘(うま)い言を幕府の役人に持ち込んでいるという噂もありますさ。 しかし、幕府が外国の力によって外藩を圧迫しようとするなぞ実に怪しからんという人はあっても、薩長が外国の力によって幕府を破ったのは、誰も不思議だと言うものもない。」 いつになく興奮する寿平次に驚きながら困惑する半蔵。 寿平次の憤りは農民たちの怒りであったのだと思います。 「私たちはお互い庄屋ですからね。したから見上げればこそ、こんな論議がでるんですよ。」 「兎に角、寿平次さんーー西洋は這入り込んで来ましたね。考うべき時勢ですね。」 また第一部後半から、国学をもって物を見る半蔵の視点が目立ってきます。 こういう空気の中で、半蔵の耳には思いがけない新しい声が聞こえて来た。 かれはその声を京都にいる同門の人からも、名古屋にある有志からも、飯田方面の心あるものからも聞きつけた。 王政の古(いにしえ)に復することは、建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くことであらねばならない。 その声こそ彼が聞こうとして待ち詫びていたものなのだ。 多くの国学者が夢見る古代復帰の夢がこんな風にして実現される日の近づいたばかりではなく、あの本居翁が書き遺したものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒(きゅうせんぼう)をもって任ずる長州の志士達ですら意外とするところであろうと彼には思われた。 中津川の友人香蔵から半蔵が借り受けた写本のなかにも、このことが説いてある。 一体草叢の中から下賎なところから事がおこったは、どういう訳かと考えてみるがいい。 つまり大義名分ということは下から見上げる方がはっきりする。 だから桜田事件も起れば、大和五条の事件も起れば、筑波山の事件も起る。 それから長防二州ともなれば、今度は薩長両藩ともなる。 いくら幕府が厳重な処置をしても、最初に水戸の数十人を殺せば桜田前後には数百人になり、筑波の数百人を殺せば数千人になり、しまいには長防西国の数万人になって、徳川の威力では制し切れない。 桜田事件:桜田門外の変 大和五条の事件:天誅組 筑波の事件:水戸天狗党 夢見がちな半蔵の思い描くもの、 国学者たちが夢見た古代復帰がどのような日本の夜明けを迎えるのか。 慶応三年、大政奉還の年、西暦1867年。 仏蘭西(ふらんす)ではナポレオン第三世の時代に当り、 英吉利(いぎりす)では ビクトリア女王の時代。 第一部はこんなところで終了しています。 最早恵那山(えなさん)へは幾度(いくたび)となく雪が来た。 半蔵が家の西側の廊下からよく望まれる連峯の傾斜までが白く光るようになった。 一ヶ月以上続いた「ええじゃないか」の賑やかな声も沈まって行って見ると、この未曾有の一変革を思わせるような六百年来の武家政治も漸くその終局を告げる時に近い。 街道には旅人の往来もすくない、山家(さんが)はすでに冬篭りだ。 夜ともなれば殊にひっそりとして、火の番の柏子木の音のみが宿場の空にひびけて聞こえた。 夜明け前 島崎藤村 昭和文学全集 巻二 ![]() 右の写真は、私の庭で一番遅くに咲き出す紫陽花です。 馬籠画像はフリーフォトライブラリーから http://www.photolibrary.jp/category.html 再度見直し直しましたが、細部にこまかい間違いありそうです、ムズカシイお話しなので。「あれ、違ってるぞ」と気が付かれた所は気軽にコメントしてやってください。なにせいささか迂闊者でして。(7/3) |
| << 前記事(2008/07/02) | トップへ | 後記事(2008/07/10)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
第一部を完読なさったのですね。 |
エフ・エム 2008/07/05 11:20 |
エフ・エムさん、こんばんは。 |
ちと 2008/07/05 21:13 |
| << 前記事(2008/07/02) | トップへ | 後記事(2008/07/10)>> |