![]() 和宮様の御通行は、本来ならば東海道経由であるべきところだが、東海道筋は頗(すこぶ)る物騒で、志士浪人が途(みち)に御東下を阻止するような計画があると伝えらたということで、半蔵たちのすむ馬籠経由、東山道(いわゆる中仙道系)を通ることになった。 (公武合体:1862孝明天皇の妹和宮が将軍徳川家茂いえもちへの降嫁。) 東山道にある木曾十一宿の位置は、江戸と京都のおよそ中央のところにあたる。 言うまでもなく、江戸で聞くより数日も早い京都の便りが馬籠に届き、 江戸の便りはまた京都にあるよりも数日先に馬籠にいて知ることが出来る。 馬籠陣屋の青山半蔵の父、 青山吉左衛門はこうして、 裏街道から国の情勢を読み解いてきた。 文久の改革がおこり、参勤交代は緩和され、諸大名の「奥方」「若様」がお国許へ帰ることになる。 安政の大獄以来、逼塞に追い込まれていた徳川慶喜・松平慶永らが表舞台に復帰したことにより幕府の改革は進むかに見えたが、やがて島津久光との意見の相違が明らかとなり、対立する。(島津久光は帰国の最中、生麦事件を起こす。) 「あなたは勤王家ですか。」 「勤王家とはなんだい。」 「その御味方ですかッて、訊(き)いているんですよ。」 「お民、どうしてお前はそんなことを俺に聞くんだい。」 半蔵は本陣の上段の間にいた。そこは諸大名が宿泊する部屋に宛ててあるところで、平素はめったに家のものも入らない。お民は仲の間の方から、そこに片付けものをしている夫を見に来た時だ。 「どうしてということもありませんけれど、」とお民は言った。 「お母さんがそんなことを言っていましたから。」 半蔵は妻の顔を眺めながら、 「俺は勤王なんてことをめったに口にしたこともない。 今日、自分で勤王家だなんて言う人の顔を見ると、俺は噴き出したくなる。 そういう人は勤王を売る人だよ。御覧なーーほんとうに勤王に志しているものなら、かるがるしくそんなことの言える筈もない。」 「わたしはちょいときいて見たんですよーーお母さんがそんなことを言っていましたからね。」 「だからさ、お前もそんなことを口にするんじゃないよ。」 お民は周囲を見廻した。そこは北向きで、広い床の間から白地に雲形を織り出した高麗縁(こうらいべり)の畳の上まで、茶室のような静かさ厳粛さがある。厚い壁を隔てて、街道の方の騒がしい物音もしない。部屋から見える坪庭には、山一つ隔てた妻籠より温暖(あたたか)な冬が来ている。 「そう言えば、これは別の話しですけれど、このあいだ兄さん(寿平次)が来た時に、わたしにそう言っていましたよーー平田先生の御門人は、 幕府方から目をつけられているようだから、お気をおつけッて。」 「へえ、寿平次さんはそんなことを言っていたかい。」 将軍上洛の前触と共に、京都の方へ先行してその準備をしようとする一橋慶喜の通行筋はやはりこの木曾街道で、旧暦十月八日に江戸発駕(はつが)という日取りの通知まで来ている頃だった。道橋の見分に、宿割に、その方の役人は既に何回となく馬籠へも入り込んで来た。 一橋慶喜は江戸幕府十五代将軍になる徳川慶喜。 十三代将軍家定のとき、将軍継嗣問題で紀伊藩主徳川慶福(よしとみ〜のちの家茂いえもち)と将軍職を争い敗れた。安政の大獄で隠居・謹慎処分を受けたが、井伊直弼の暗殺後に許され1862年の幕府政革で将軍後見職となり家茂を補佐。(この時参勤交代の緩和策出る)66年家茂死後将軍職を継ぎ幕府を改革したが、67年大政奉還を上表した。 二月も末になって、半蔵のところへは一人の訪問者があった。 宵の口を過ぎた頃で、道に迷った旅人なぞの泊めて呉れという時刻でもなかった。街道もひっそりしていた。 「旦那、大草仙蔵という方が見えています。」 囲炉裏ばたで藁造(わらつく)りをしていた下男の佐吉がそれを半蔵の所に知らせに来た。 「大草仙蔵?」 「旦那にお目に掛れば分ると言って、囲炉裏ばたの入り口にお出でたぞなし。」 不思議に思って半蔵は出て見た。京都方面で奔走していると聞いた半田同門の一人が、着流しに雪駄(せった)ばきで、入口の土間のところに立っていた。 大草仙蔵とは変名で、実は先輩の暮田正香(くれたまさか)であった。 「偽名」「着流しに雪駄ばき」尋常ならざる事態に動揺する半蔵ですが、蔵のなかへ招き入れ、一晩かくまいます。 二人きりになると、暮田は半蔵に待ちかねたと言うように切り出します。 「青山君、やりましたよ」 半田門人達が等持院に安置してあった足利尊氏以下、ニ将軍の木像の頸を抜き取って、三条河原に晒(さらし)ものにしたという。 ところがこの事を企てた仲間のうちから、会津方(京都の守護の任にある)の一人の探偵があらわれて、同志の中には縛についたものもある。正香はニ昼夜兼行でその難を逃れて来たのだ。 正香に言わせると、将軍上洛の日も近い。 三条河原の光景は、それに対する一つの示威である、尊王の意思表示である、と。 「今の京都には何でもある。、公武合体から破約攘夷まである。そんなものが渦を巻いている。」日頃半蔵が知りたく思っている師鉄胤や同門の人達の消息ばかりでなく、京都の方の町の空気まで一緒に持ってきたようだった。 半蔵の父、吉左衛門は中風を病み仕事を半蔵へ引き継ぐ。半蔵は父の病気平癒祈願で御嶽山(おんたけさん)へ向かっていた。半蔵の帰りを待つ吉左衛門とその妻おまんは時代と息子を案じるのでした。 「今迄はお前、参勤交代の諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。 それが江戸でなくて、京都の方へ参朝するようになって来たからね。世の中も変わった。」 「あのお友達を見ても分る。 中津川の本陣の子息(むすこ)に、新問屋の和泉屋の子息ーー二人とも本陣や問屋の仕事をおッぽりだして行ってしまった。」 「あれで半蔵も、よっぽど努めてはいるようです。わたしにはよく分る。なにしろ、あなた、お友達が二人とも京都の方でしょう。半蔵もたまらなくなったら、何時家を飛び出して行くかも知れません。」 「そこだて、金兵衛さんなんぞに言わせると、 俺が半蔵に学問を勧めたのが大失策(おおしくじり)だ、学問は実に恐ろしいものだッて、そう言うんさ。でも俺は自分で自分の学問の足りないことをよく知っているからね。せめて半蔵には学ばせたい、青山の家から学問のある庄屋を一人出すのは悪くない、その考えでやらせて見た。 いつの間にかあれは半田先生に心を寄せてしまった。 そりゃ何も試みだ。その人その人の持って生まれて来るようなもので、こいつばかりはどうすることも出来ない。 俺に言わせると、人間の仕事は一代限りのもので、親の経験を子に呉れたいと言ったところで、誰もそれを貰ったものがない・・・ 中津川本陣の子息は浅見影蔵 泉屋の子息は蜂谷香蔵(はちやこうぞう) そんな半蔵を見るお民もやはり心配そうです。 お民は少し蒼ざめている夫の顔を眺めながら言った。 「あなたは溜息ばかり吐(つ)いているじゃないですか。」 「どうして俺はこういう家に生まれて来たかと考えるからさ。」 遠い祖先から伝えられた家業を手がけて見ると、父吉左衛門にしても、 祖父半六にしても、よくこの煩わしい仕事を処理して来たと彼には思われるほどだ。 本陣とは何をしなければならないところか・・・・ 参勤交代緩和によってお国許へ帰って行った「奥方」「若様」の常態を超えた交通量は宿の疲弊を招いていたし、助郷の問題は重くのしかかる。また街道にはびこる脅迫や強請もあった(実懇という言葉は此処から出てきた)。 「新しい時代が来るのを待ちきれない」ように、天誅組にはじまり、各地で一揆が起こっていた。 (そうしてまた、遠く、学問情熱のままに京へ赴き、活動をつづける同士たちを思い、半蔵は溜息をつくのです。 ひとは誰でも、何かしらの重いものを背負って生きているようにも思います。 しかし、こんな半蔵を見ていると、そう云った背負っているものがあるからこそ、鉄砲玉のように飛び出さず、留まらなければならなかったが故に、深く考えることができるのかも知れないと思いました。) 助郷(すけごう)宿駅人馬の不足を補充するため、宿駅近傍の村々が伝馬人夫を提供させられたこと、また、それを課せられた郷村。最初は臨時で、宿の周囲2〜3里までであったが、需要によりその後拡大。この制度は必要に応じて用いられていたが、交通量の増大で恒常的となった。金銭代納が多くなり一種の租税と化す。農村疲弊の一因となり、百姓一揆が頻発した。(必要があれば無給で出て行った助っ人のような制度でした。農民たちは暮らしそのものが成り立たない貧しさの中にあり、無理な注文となって行ったのです。) 元治元年、半蔵は木曾の庄屋二名とともに再び江戸にあった。 そこで、参勤交代をもういちど復活したいという徳川現内閣の方針であることを告げられる。 助郷の制度にも無理が生じてきており、人馬の不足を訴えなければならなかった。 参勤交代制度の改革の影響は江戸にも深いものがあった。武家六分、町人四分と言われた江戸から、諸国大小名の家族がそれぞれ国許をさして引き上げて行った後の町々は、あたかも大きな潮の引いて行った後のようになっていた。 最早江戸城もない。過ぐる文久三年の火災で、本丸、西丸、共に炎上した。 将軍家ですら田安御殿のほうに移り住むと聞く頃だ。西丸の復興工事ははじまったものの、本丸の方の再度の造営は困難とみられていた。 「どうも、油断のならない世の中になりました。」江戸の宿屋、十一屋の隠居は話を継ぐ。 「大店(おおだな)は大店で、仕入れも手控え、手控えのようです。 おまけに昼は押借(おしがり)、夜は強盗の心配でございましょう。 まあ、手前共にはよく解りませんが、お屋敷方の御隠居でも若様でも、御簾中(ごれんちゅう)でも御帰国御勝手次第というような、そんな御改革を誰がしたなんて、慶喜公を恨んでいるものもございます。あの豚一様(豚肉を試食したという一橋公の異名)か、何も知らないものはふざけ半分にそんなことも申しまして、兎角江戸では慶喜公の評判がよくございません・・・」 そんな旅の空の下、江戸の宿屋の半蔵へ、京都の影蔵から便りが届くようになる。 池田屋の変は六月五日の早暁。 守護職、所可代、及び新撰組の兵はそこに集まる所藩の志士二十余名を捕らえた。このことから、長州方は入京して薩摩・会津・桑名の藩兵と蛤御門付近で交戦したが敗北。長州征伐の発端となる。 夜が明けて(七月)十九日となると、影蔵は西の蛤御門、中立売御門の方面に湧くような砲声を聞き、やがて室町附近より洛中に延焼した火災の囲みの中にいたとある。この市街戦はその日の未の刻の終りに亘った。 長州方は中立売、蛤門、堺町の三方向に破れ、およそ二百余の死体を遺し棄てて敗走した。 兵火の起こったのは巳の刻の頃であったが、折柄風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川から西は堀川に及び、南は九条にまで及んで下京の殆ど全部は火炎の裡にあった。 年寄りを扶(たす)け幼いものを負(おぶ)った男や女は影蔵の右にも左にもあって、目も当てられない有様であったと認めている。 (京という都は、いったい何回「炎上」するのだろう・・と思いました。現在でも魔界に通じているというお話が解らないでもないと思えますね。) 奉行からの沙汰を待つ間、江戸に長く留まらなくてはならなくなった半蔵は平田同門の世話で宿屋を相生町の家へ移る。 そこのお上さん(お隅)は、半蔵の妻のお民と同年くらいであった。 徳川も最早元治年代の末だ。社会は武装してかかっているような江戸の空気の中で、全く抵抗力のない町家の婦人なぞが何を精神の支柱とし、何を力として生きて行くだろうか。そう思って半蔵がこの宿のかみさんを見ると、お隅は正直ということをその娘に教え、それさへあればこの世に恐いもののないことを言って聞かせ、こうと彼女が思ったことに対して間違った例(ためし)がないのもそれは正直なお陰だと言って、その女の一心にまだ幼いお三輪を導こうとしている。 江戸は最早安政年度の江戸ではなかった。 文化文政のそれではもとよりなかった。 相変わらずさかんな江戸の芝居でも、怪奇なものはますます怪奇に、繊細なものはますます繊細だ。尖った神経質と世紀末の機智とが淫靡(いんび)で退廃した色彩に混じ合っている。 この江戸のはじめの頃には、半蔵はよくそう思った。 江戸の見物はこんな流行を舞台の上に見せつけられて、遣り切れなくならないものかと。 よく見れば、この退廃と、精神の無秩序との中にも、ただただその日その日の刺激を求めて明日のことも考えずに生きているような人達ばかりが決して江戸の人ではなかった。 夜明け前 島崎藤村 昭和文学全集 巻ニ ![]() ここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら心から御礼申しあげます。いや〜夜明け前はへビィです。よくもこんなプロジェクトをはじめてしまったものだと自分でもやや後悔しています。 |
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和宮が東海道でなく、中仙道を通って江戸に下ったことは、榊原郁恵さんが中仙道をてくてく旅したNHKの「街道てくてく旅」を見て、はじめて知りました。和宮にまつわるいろいろな話が残っているようです。 |
エフ・エム 2008/06/27 22:52 |
「街道てくてく旅」は勅使河原郁恵さんでした。ごめんなさい。 |
エフ・エム 2008/06/28 16:29 |
エフ・エムさん、こんばんは。 |
ちと 2008/06/28 21:12 |
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